風間家の日常

朝のひと時




「おはよう、天霧」
天霧の耳に入ったのは、聞きなれた可愛らしい幼子の声。彼は毎朝それを聞く事が楽しみだ。
「これは若君、今日も朝稽古お疲れ様でございました」
振り向けばそこには風間家頭領、千景の第一子である千早が存在していたおり、今日もまたいつものように朝の稽古を終え、彼の元へとやってきた。
千早は稽古を終えると決まって天霧の元へとやってくる。
というのも、彼は天霧に懐いており、そしてなにより彼に稽古を付けてもらう事が好きだった。
「明日は天霧がけーこつけてよ!」
彼は強く、そして的確に悪い所を指摘してくれる。もちろん、父との稽古も好きではあるのだが、千景の口下手さが災いしてか、傷つけないように悪い所を指摘するという事が苦手だった。
「ええ、そうさせていただきます」
風間家の第一子としてこの世に生を受けた彼は優秀だった。毎朝日が昇る頃には起き、そして稽古を始める。勉強も秀でており、弟達や里の子供たちに読み書きを教えられるほどだ。
天霧はその姿を見ると、彼の父に爪の垢を煎じて飲ませたいと思うほどだったが、千早には一つ欠点がある。
それは、次期頭領としては致命的とも言えるもの、彼は優しすぎるのだ。虫を殺す事はおろか、花を誤って踏んでしまっただけでも彼は泣いてしまう。
優しすぎては里を守って行く事は出来ない、それさえなくなれば次期頭領は確実だろう。
「母上はどこにいるの?」
「奥方様でしたら先ほど風間を起こしに行くと寝室に戻られましたよ」
そして、次に彼が向かう所は母のいる場所、千早は優しい母が大好きで、ついつい甘えてしまう所がある。
その様子は宛ら、幼い千景が彼女に甘えている様にも見えた。
「わかった、ありがとう!」
それだけ聞くと千早はダッと両親の寝室の方へ走り出した。


「もう、千景さん離してください!朝なんですよ?」
その頃寝室では夫婦の攻防が繰り広げられていた。これもいつもの風間家の日常風景ではあるのだが、今日は一段と千景がしつこいらしく、千鶴の抵抗はいつもより激しくなっている。
「俺はまだ眠い」
千鶴の体をぎゅっと抱きしめたまま、布団から出るのが相当嫌なのか、彼女ごと布団の奥へと潜り込む。
「千早はもう起きる頃ですよ、父様がそんな事でそうするんですか!」
「…………」
「寝ないでください!!」
そんな千景の様子に千鶴はこれじゃあ千早の方が大人のようだと呆れ半分に思うのだった。
そんな事を考えながら、もう少しならいいかと諦めかけていた時の事、とたとたと何かが近づいてくる音が千鶴の耳に入った。
その足音のおかげか、彼女はもう少しなどという甘い考えを捨て去り、千景に再度抵抗を始める。
早く起こさないと。と、千景から必死の脱出を試みるも千鶴が力で敵う相手ではない。
それでも、千鶴は諦める事をしなかった。これは彼の威厳に関わる問題だから。
「起きてください、千景さん!」
そんなとき部屋の襖がスパーンと勢いよく開いた。
耳に響いたその音に、間に合わなかったと彼女はため息を洩らす。
「母上!」
千鶴の目に映ったのは愛しい我が子、そしてきっとその目に映っているのは朝から布団の中で抱き合っている父母の姿だろう。
「千早、おはよう」
千鶴は気まずそうに苦笑するが、千早はそんな事を気にしてはいないのか、にこにことタンポポのような笑みを浮かべている。
「もう、か」
千早が気にしない事は千鶴にとって救いだが、千景がこの状況を気にしないというのは、千鶴にとって頭を抱えそうになる悩みである。
「だから言ったじゃないですか」
子供に起こされる親など、この先確実に威厳というものが欠落してしまうだろうから。
今はまだ幼いからいいものの、この子が大きくなってもこんな有様だったら少しどころではなく恥ずかしいと千鶴は思う。
しかも、起こしに来るのが千早だからいいものの、これが次男坊であったならそう簡単にはいかない。
なんとなくだが、千景との良い争いが勃発するような気がしてならないのだ。
「おはようございます母上、父上。」
千鶴のそんな思いを知ってか知らずか、キラキラとした瞳で千鶴に抱きつき、二人と同じ布団に入ってきた千早。
それを千景は千鶴と二人まとめて抱きしめた。
「父上?」
さすがの千早も疑問に思ったのか、首を傾げながら彼を呼ぶ。
「このまま寝るぞ」
「ダメです」
眠そうな声で紡がれたその言葉に千鶴がピシャリと言い放つ。
「母上がダメならダメ!」
それに続く様に千早も二度寝禁止令をだすのだった。
「ちっ……」
二人に言われしぶしぶと起き上がった千景。その後からゆっくり起き上がった千鶴の衣服は、何があったのと問いかけたくなる程に乱れてしまっていた。
「ほう、そのように衣服を乱れさせるとは、我が妻はよほどこの俺を試したいと見える」
彼はじっと妻のその姿を見つめながらそう言った。
「え?きゃあ!」
やっとその惨状に気付いた千鶴は、真っ赤になりながら着物を整えた。
「こ、子供の前で何を言っているんですか!」
千早はその様子を見ながら、何を言っているか分からないというようなキョトンとした顔をしている。
「こやつもいずれ知ることになるだろう」
「まだ六歳です。なんだか千景さんが子供みたいです」
ふんっと、ふてくされたようにそっぽを向いた千鶴は千早の手を引いて寝室を出て行ってしまった。
千景さんの馬鹿……こういうのは子供のいないところでしてくださいといつも言っているのに。と千鶴思う。それは、彼の行動に対して嫌というわけではないと肯定している様にも伺える。
「母上どうしたの?お顔が真っ赤だよ、お風邪ひいたの?」
「赤くなってた?ご、ごめんなさいね千早、でもお風邪じゃないから安心していいのよ」
千鶴は焦ったように笑い、必死に誤魔化そうとした。
「そうなの?でももっと真っ赤っかだよ?」
が、そんな努力も彼には通じていないのか、追い打ちをかけるようにそう紡ぐ。
彼女は思う、こういうところは確実に千景に似たのだと。
「さ、さぁ早く千尋を起こしにいっちゃいましょう、ねっ?」
これ以上この話題を子供の前でするのは恥ずかしすぎると、千鶴はやや強引に話題を変えた。
「はい!」
向かうは次男、千尋の寝室。


ある部屋の襖を開けば、そこには気持ち良さそうに寝息をたてている幼子が一人。
次男である千尋は寝起きが千景並みに悪いため、毎朝千鶴と千早が起こしに来ていた。
「なんだか、起こすのがもったいないわ、こんなに気持ち良さそうに寝ているんだもの」
千景の時とは違い、千鶴は何故か起こすのを躊躇ってしまう。この様を千景が見たら拗ねるだろうか。彼女はそんな考えを、ふっと頭に過ぎらせた。
「でも母上、早くしないと朝餉が冷めてしまいますよ?」
千早の言う通りだった。一人だけ冷めたご飯を食すというのは、千鶴の望むところではない。それに加え、彼だけ起こさないという事になれば、後でふてくされてしまう可能性もあるのだ。
「そうね、起こしちゃいましょう」
「はい、母上!」
千早は早速というように千尋の耳元に移動し、大きく息を吸い込む。
「おおおおおきいいいいろおおおお!」
そしてそれを思いっきり千尋の耳元で発せば、その大きな声に千尋はビクッと肩を揺らし、ゆっくりと目を開き始めた。
「……兄さま?」
「おはよう千尋!」
眠そうに目をこすりながら千尋は兄を呼んだ、そしてその光景を微笑ましく見守りながら千鶴は彼に話しかける。
「おはよう千尋、いい夢は見れた?」
「母さま……」
のそりと小さな身体を起こす仕草は本当に千景によく似ていると千鶴は少し複雑な気持ちで見つめていた。
「おはようございます。母さま、兄さま」
今だ焦点の定まらない目でそう言うと、千尋は一つ欠伸をし、二人に向かって頭を下げながらそう言った。
「はい、よくできました」
「もう大人だもん……」
頭を撫でられ子供扱いされたと勘違いしてしまったのか、千尋は頬を膨らませ、むくれる。
「ふふ、そうね、千尋は大人だもんね。」
男の子なのに千尋はおませさんよね、と愛しい我が子の成長を感じながら千鶴は微笑んだ。
「母上僕は!僕は大人?」
ねぇねぇ教えて、というような期待の眼差しで千早は千鶴の答えをじっと待つ。
「ええ、千早はお兄さんだもの」
千鶴は綺麗な花が咲いたような笑みで彼にそう告げる。千早はつられるようにニコッと笑い千鶴へと抱き付いた。
「……おれもお兄さんだもん」
あ、まずい。千鶴は直感的にそれを感じ取るも、時すでに遅く、千尋は目に涙を溜めてしまっている。千鶴はこのままではいけないと、そっと千早に語りかけた。
「千早、父様の所に先に行っていてもらえる?多分千雪の部屋、かな」
「はい母上!」
それだけ言うと千早はやった!というふうに千雪の部屋の方に走った。
彼もまた千景同様に妹が大好きだったから。
「廊下は危ないから走っちゃ駄目よー!」
「はーい!」
元気な返事が返ってきたところで千鶴はさてと、と千尋に視線を合わせた。
「千尋、おいで、母様千尋のことぎゅってしたいな」
千鶴はそのまま本心を口にする。
千尋は素直な方ではなかった。どこにいても甘えられる千早と違い、二人きりにならなければ甘えるという事は絶対にしない。
千鶴はそれを知っていた。
「……ほんと?」
涙目になってしまっている千尋の目がキラキラと輝きだす。
「本当よ、おいで千尋」
千尋がゆっくり彼女に近づくと、それにこたえるように千鶴は膝の上に彼を座らせて、ぎゅっと抱きしめた。
「母さま」
「なぁに?」
「母さまは兄さまとどっちが好きなの?」
「どっちも同じくらい大好きよ、二人だけじゃなくて、千雪も父様も大好き。」
千尋は兄妹の中で一番甘えたがりだ。なのに、普段は甘えてこない。千鶴は内心そんなところが可愛くてしかたなかった。
しかし当の本人は、それが千景からみた自分の姿だとは全く気づいていないようだ。
「もうちょっとしたら母様と顔洗いに行きましょうね」
「はい、母さま」
「今日のお味噌汁は千尋が好きなお豆腐よ、冷めないうちに食べに行かなきゃね」
「はい……で、でも、もう少しこうしていたいです!」
千鶴は思った、可愛くて可愛くて仕方がないと、そして千鶴はもう一度ぎゅっと千尋を抱きしめる。
風間家の朝はこうして過ぎていくのだった。


元は2012年の春コミ無配本です。
何回か再発行したいなと思っていたのですが間に合わなかったのでサイトの方で上げていきます。
暇つぶし程度に読んでいただければ光栄です。